『けれども、こんなことは何の意味もない。ほんとうのエスプリの働きは努力的ではないのだから、自らも意図しないのに、 』辻まことの「制作ノート・メモ」から借用して写真展のタイトルとした。
私の写真の流儀のようなものを説明しようとすると、無意味とか、努力的ではないといった自虐的な言葉が正直なように思えたが、写真の対象としてきた風景が、自らの意図からではなく人工が自然へと変容する姿だったからである。
日本でも外国でも、街の路地に迷い込むのが私の旅の作法なのだが、そこには路地を共有する人々の生活の断片が無造作に形作られている。成り行きで、あるいは歳月を経てそこに在るさりげない風景は、街であれモノであれ計画され設計された晴れがましい人工であった。しかし、人々の営みは、歳月と共に街をすり減らし、モノを壊して馴染ませていく。それはいっとき意匠を捨てた物質そのものの姿だったりする。
生活の環境の好ましい姿は計画や設計で得られる訳ではない。それは人々の営みの中で練り上げられていくように思える。写真に渇望するのは、そのような無造作なモノの有様や朽ちていく人工などかつて人々の意図に満ちた機能や晴れがましいモノの終の姿が輝いて見えるからである。