受け箱の制作
記録・中島木箱工場の場合
牛乳の受け箱は何処で作られているのだろうか?木製に限れば、それぞれの地域に乳業会社から受注する木工所があったと思われるが把握できていない。
ところで、日本海沿岸を中心に北日本一帯の乳業会社をカバーする受け箱専門の木工場が新潟県に現存する。この工場の様子から受け箱製造の状況を知る事ができると思われるので訪ねて話を聞いた。
「中島木箱工場」は新潟県北部、鮭の遡上で有名な村上からバスで20分、岩船港に工場がある。中島洋巳氏が船大工であった父親から工場を受け継ぎ、牛乳受け箱の製作を手がけたのは昭和44年、20歳の時であった。父中島○○氏は腕の立つ職人であったが、漁船が強化プラスチックに替わりつつある頃で、将来を案じていた旧知の塚田牛乳(新潟)から牛乳箱を発注したのが発端だったそうだ。洋巳氏は、岐阜の「辻受け箱」(正式会社名不明)が単価110円で卸していた雪印の受け箱を単価90円で引き継いだのが、本格的に受け箱製造を始めるきっかけだという。昭和45年頃の事であった。
車で日帰りできる範囲は乳業廻りもしたが、大手乳業の場合は地域の工場から工場へと話は伝わり、小さな牛乳屋には瓶の業者が評判を伝えて、営業をしなくとも注文が途切れる事はなかった。箱は地元産の杉材を主材料とし、塗装、名前入れまで自社で行う迅速な対応が評判を呼んだと思われる。1000個を越える注文も少なくなかったが、自動釘打ち機の導入で対応できた。
【図1】桐生の「田中牛乳」からの受注メモ
ブランド名のステンシル印刷の版板
新潟県村上市岩船漁港にある工場
デザインは簡単なメモ程度の指示で、文字も角ゴジ、丸ゴジ程度の区別、色も黄色、赤といった大雑把な指定であった。【図1】
名入れは、船大工であった父親が船名を船体に手書きする技術を生かして文字を書き、洋巳氏が特殊紙の型を切り抜くステンシル印刷で行ったが、やがてシルクスクリーンに替わった。製版もボンドを薄めて手書きする徹底した自社製造である。職人の器用さが伺えるが、細かなマークなどには手を焼いたという。街中で見かける古い牛乳箱のほのぼのとした感じは、このような手仕事の跡が残っているからかもしれない。
これまでに受注したブランドは北は青森から西は京都、三重県まで乳業会社から町の牛乳屋まで総数約○○社に及ぶ。やがて、受け箱にプラスチック製が出現し、徐々に受注が減少して行った。夏場の保冷という意味でははるかに木製が優れていたから、プラスチック箱への転換を躊躇する乳業会社もあったが、当時のプラスチック信仰もあった時代の流れということだろうか。しかし、何よりも紙パックの出現、スーパーマーケットなど量販店主導による流通が進み、宅配が激減した影響が大きい。平成2,3年頃を最盛期とし、以降注文は激減する。たとえば、明治乳業○○工場からは平成10年に400個の注文が最後となった。4本入りの箱単価290円である。プラスチック製保冷受け箱への転換のためとの挨拶があったそうだ。
その後、受け箱の注文はわずかになったが、インコ用鳥かごの大量注文や、焼杉の風合いを生かした個人用の受け箱をネット販売するなど中島木箱工場は健在である。
工場の壁に残されたサンプルの一部
牛乳受け箱は工芸品のように精緻な技術が問われるわけではない。単価勝負のただの釘うちの木箱であるが、製造工程には様々な工夫がこらされ、中島氏からは職人らしいモノ作りへの愛情が話の端々に伺えた。経営を裏方として支えてきた中島夫人は、テレビの旅番組などで紹介される町並みに知らず知らずに牛乳箱を探しているという。そして手がけた木箱をよく見かけるのだそうだ。確かにおびただしい数の受け箱が中島木箱工場から送り出された。それは牛乳配達と家庭の間で役目を果たし、ローカルな名が刷り込まれた箱は、その街に暮らす人々の共通の記憶として意識の底に刻まれているに違いない。(2008年11月)